Column コラム
ここでは、赤城さんからお聞きした話を整理して、ご紹介していきます。
久しぶりの取材記事
第十八回
ジャガー横田さんからのコメント BUBKA 2016年7月号(白夜書房)、「吉田豪インタビュー スーパースター列伝」に、赤城さんのインタビュー記事が掲載されました。経営するお店を閉めてからは、基本、メディア取材は受けてない状態だったので、貴重なものです。ぜひ手にとってごらんください。
ジャガー横田さんからのコメント
第十七回
ジャガー横田さんからのコメント 今でも現役を続けているジャガー横田さんからコメントをいただきました。ビューティ・ペア全盛期に入団した横田さんとは3年ほどの接点があります。
 「8年のキャリアの差がありましたから。当時、私は15、6歳で子どもでしたので、大人の大先輩というイメージで。赤城さんはトップの方でしたから、挨拶ぐらいしかできない。試合で当たることも、2年後ぐらいには当たれるようになれましたが。接点を持たせてもらえない、それぐらい雲の上の人でした。
 テレビの仕事で、ツービートさんと試合形式のものをやったんですよ。赤城さん、ご存知ないと思うんですが、ビートきよしさんに素晴らしいキックを入れたんですね。数十年経って、きよしさんにお会いしたときに、「あの時の試合で、胸にヒビ入った」とおっしゃったんです。それは赤城さんですねと言った記憶があります。赤城さんが胸に当てたのは印象に残ってるんですけど、ヒビ入ってたようです。体の小さい方なので、鋭い攻撃をされてたんです。芸人だからといって容赦しないという仕方を、私も見倣ってやってきたんですけども。
 私が来ている練習には来られてないので、直接教わることはなかったですね。ただ、卍固めとか使ってらっしゃったんで、自然と見て練習させていただいた感じです。小さな巨人という言葉がありますが、赤城さんには合ってると思います。身長も150ぐらいしかないのに、誰も150しかないとは思わないと思います。それぐらい光ったレスラーだと思います。似てると言われた時代もありましたね。華麗なワザをやってらっしゃたし、固めワザも1個1個決めてやってらしたので。表情も闘う女性というのかな、厳しい顔は、今でも覚えてますね。あのときのイメージは今でも残ってますから。とても尊敬できる先輩です」
ALL ABOUT 赤城マリ子 PART3
第十六回
ALL ABOUT 赤城マリ子 PART3 パート2発行から6年近く経ち、ALL ABOUT 赤城マリ子パート3を作成しました。パート2を作成したときは、もう作らないだろうと思っていたのですが。発行後このサイトを立ち上げ、資料も地道に集めてきました。赤城さんへのインタビューやミーティング、雑談も何度かさせていただいて、さらに、当時の関係者の方々からのコメントもいくつかいただくことができました。
 今回は、散らばっていた資料やデータをまとめることが目的で、自分のためにつくりました。そのため、費用を度外視。フォーマットも、最近増えてきているPHOTO BOOKを使用しました。デザインの制約はあるものの、きちんとした製本で仕上がりもバッチリ。手間もかからず、データを保存しておけば増刷もできるというメリットがあります。
 つくっているうちにページ数もどんどん増えていきました。資料も縮刷版的な扱いにして本文が読める状態で組み込んでいます。この時代のファンの方にとっては、かなり貴重なものになっていると思います。また、90ページを超えるPHOTO BOOKなので、単価もそれなりに高価です。ですので、多くの人に手にとってもらうことは考えていません。このサイトからの販売も行いません(高価でも、どうしてもほしいという方には、ご相談に乗りますが)。


<内容>
●ロングインタビュー
●ショートムービー「ミステル・ロココ」出演秘話
●関係者の証言(マキ上田、志温野温夫、ロッシー小川、ナンシー久美、池下ユミ)
●資料集(赤城さん掲載のパンフ、海外誌、雑誌、新聞、ポスター、半券等)

B5変型(186mm×248mm)、96ページ6色印刷。

ナンシー久美さんからのコメント
第十五回
ナンシー久美さんからのコメント  ビューティーペア全盛期に全女に入門し、ビクトリア富士美とのゴールデン・ペアで活躍。WWWA世界タッグ王者にもなっているナンシー久美さんからコメントをいただけました。全女引退後、一時ジャパン女子で復活しました。ジャッキー佐藤の最期を看取ったのも彼女。現在は、横浜で清心館空手道の指導を行っています。
「けっこう後輩たちの面倒をみてくれてた記憶があります。“お金ないでしょう?といってごちそうしてくれたり”。試合はもちろん厳しかったですが(笑)いろいろ教えていただきました。今でも感謝していますよ」。
http://www5.hp-ez.com/hp/seishinkan/
志生野温夫さんからのコメント
第十四回
志生野温夫さんからのコメント  全日本女子プロレス中継を長く務めた志生野さんから、コメントをいただくことができました。「日本テレビに入社したあと、若手のプロレス中継の手伝いをして、力道山にも接しましたが、ほとんど、プロレス中継はやったことがなかったんです。ゴルフやボウリング、王&長嶋時代の巨人の実況などをやらせてもらっていましたが。それぞれ、ブームが起こっていい時代を迎えたジャンルで。女子プロレスもブームが起こって。そういう意味ではアナウンサーとして幸運でした。フリーになった後、全女中継の実況のお話をいただいたときは、正直言って女子プロレス?と思いました。最初、見に行ったとき、社長はどこ?と聞くと、そこで焼きそばを焼いてるんです。面白いなと思いました。そして、試合を見ると、スピードもあるし、迫力もある。偏見がなくなりました。  赤城さんとは、会場で会った時は、よく昔話をするんですよ。話が合う。白い衣装なんて忘れられないし。女子プロレスの放送は、赤城マリ子から入ったわけだし、僕らにとっては最高の選手ですよ。最初のスター。ビューティーやマッハって言うけど、その前に赤城マリ子がいたんですよ。全女には。赤城マリ子がファンを掴んだんです。
 僕は、赤城さんの実況中継は、ほんの少ししかできなかったんだけど、赤城さんのクラブに行ったり、会場で会ったりして、赤城マリ子さんという女性は、本当に魅力ある女性なんだなと思いましたね。プロレスラーとして見て、きれいな人だな、華やかな人だなと思ったけど、人間として素敵な人だったんだなと思いました。プロレスのときの付き合いは短いんですけど、強烈な印象が残っていますから。
 赤城マリ子さんというのは、僕の中では絶対の存在ですから。力道山以上ですよ、本当に」。
ロッシー小川プロレス35周年記念アルバム
第十三回
ロッシー小川プロレス35周年記念アルバム 2013年4月、スターダムの両国大会から発売されたもの。小川氏がファン時代から現在にいたるまでのレスラーとの記念写真を集めたものです。女子プロレスラーも、全女からアルシオン、AtoZ、スターダムまで幅広い。男子にいたっては、猪木、マスカラス、ゴッチ、シンやファンクス、など。その顔ぶれを見るだけでも面白いものです。
 その中に、赤城さんとのツーショットもおさめられていました。そのまわりには、ビューティー・ペアやウェンディ・リヒターなども見られます。
 みなさんも手にとってみてはいかがでしょうか。
元ビューティー・ペア、マキ上田さんのコメント
第十二回
マキ上田 赤城さんと時代を共有した、マキ上田さんにお話しを聞くことができました。ビューティー・ペア・ブームのおかげで、女子プロレスは一時メジャーの仲間入りをすることができました。それまでの不遇時代を乗り越えられたのも、BPのおかげと言ってもよいでしょう。
 「赤城さんは、私たちの世代にとって、特別な感じの人というイメージがありました。一人別格の人がいるなという感じ。衣装も、他のメンバーとは違うイメージで。空気の違う人がいるなと思っていました。大先輩だし、自分のほうから話できるタイプじゃないし。ご飯いっしょに行く訳ではないですし。あまりよくわかんないんですよ。試合をしてみると、小まわりのきく動きの早い選手。性格がよくでてて。スポーツとか格闘技って、その人の性格がでるなと思う。パンチとか蹴りは強烈でしたね。痛かった思い出があります」。赤城さんにとっては、WWWAのシングル王座を争った最後の相手。しかし、プライベートでは、あまり接点はなかったようです。
ロッシー小川氏の話
第十一回
ロッシー小川 現在、女子プロレス団体のスターダム社長を務めるロッシー小川さんの話を聞く機会がありました。いまや、数少なくなった全女を知る関係者のひとりです。「昭和48〜51年頃、自分が少年プロレスファンとして見ていたときの印象が強いですね。当時、11PMという番組で、3ヶ月に一度放映していました。ジャンボ宮本からWWWA王座を獲った試合とか記憶に残っています。どちらかというと、ジャンボ宮本やマッハ文朱のパートナーというタッグの印象が強いですね。アントニオ猪木とミル・マスカラスが同居したような技を使っていました。自分が、全女に入ったのが昭和53年なので、赤城さんは晩年で、ヒールみたいなことをやっていました。全盛期の良いところは見られなかったです。引退のときの扱いが、ちょっとないなあと、当時は思いましたが、他の選手も似たような扱いだったので。当時、事情はよく知らなかったので、そんなものなのかなとも思っていました。業界の先輩なので、今でも会えば、そういう接し方をしますし、一時代を築いた選手なので、その時代を知る自分たちが、それを伝えていくことはしなければいけないと思います」
 女子プロレスについての他の話もお聞きできたので、その話題は別の機会にご紹介します。
ヤシの実割り
第十回
赤城マリ子 赤城さんに、赤城さんの試合を解説いただいたときの話です。ココナッツ・クラッシュこと「ヤシの実割りを結構使っていましたが?」という問いかけに対しての答えです。ジャイアント馬場が得意としていた他は使い手はほとんどいなかったはずですが、「初代(赤木まり子)から、これだけは使ってほしいと言われたの。初代は、両足がきれいに浮き上がっていて、それがなかなかできなくってね(笑)」。意外にも、技の部分でも伝承が行われていたのです。

一般誌に掲載された赤城さん
第九回
  赤城マリ子赤城さんが活躍した時代は、プロレス専門紙誌に女子プロレスが掲載されることは稀でした。ゴング、プロレス、ファイトなどのバックナンバーをチェックしてもとても少ない掲載数です。そんな中、一般誌に取り上げられることは意外に多くありました。今回は、その中からいくつかご紹介します。

ウィークエンド・スーパー(セルフ出版)1979年(写真左)
「翔んでるスター」というコーナーに、1ページで紹介。ビューティーペアのマキ上田が引退した後の取材と思われる表現で、1年でも長くリングに真紅の花を咲かせ続けてもらいたい、と結んでいる。

週刊実話(日本ジャーナルプレス新社)1973年(写真右)
「男顔負け“おんな四銃士”」と題し、1ページで紹介。女プロレスラーという記載が時代を感じます。ほかには、“アクションスター”塩見悦子(後の志穂美悦子)、ローラーゲームの佐々木ヨーコなどが取り上げられています。
引退を発表した全女のプログラム
第八回
赤城マリ子 赤城さんが引退を表明したプログラムを入手しました。「GO! GO! Vol.5 サマーシリーズ」。ファンの皆様へと題した挨拶文が掲載されていましたので原文のまま紹介します。。「いままで赤城マリ子に暖かいご支援いただきまして、誠にありがとうございました。昭和45年にデビューしてから足かけ10年間やってまいりましたが、体力的に限界を感じ引退を決意しました。ジャンボ宮本さんと初めてタッグ選手権を獲得した時の感激は一生忘れません。シングル選手権もおかげさまで2度も取ることができました。ファンの方々のおかげだと熱く感謝しております。
 7月31日、田園コロシアムで引退試合を行いますが、思えば、2年前、同じリングで世界選手権を争った思いで深い会場です。この会場で引退することができ感無量です。
 このシリーズは残り少ないプロレス生活ですので一戦一戦大事に戦っていきたいと思っています。女子プロレスに青春を捧げた10年間、私は一つの悔いもありません。しかし、すみなれた女子プロレスの生活に別れを告げることは、私にとって悲しみを隠しきれません。今後は本名の、加瀬谷東子に戻り第2の人生を歩んで行きます。プロレスで学んだ経験を生かし何ごとにも負けずに進みたいと思います。私が去った後の女子プロレスをより一層よろしくご支援お願いします。長い間、ありがとうございました。 赤城マリ子」
週刊プロレス
第七回
赤城マリ子 2011年6月8日発売の週刊プロレスNo.1581号に、“全女”レスラーカタログ100という特集が掲載されました。赤城さんは、というとビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズの次に、マッハ文朱、ジャガー横田らと掲載されていました。1/2ページの扱いは最大スペース。他はダンプ松本、ブル中野、北斗晶、アジャ・コング、豊田真奈美。こういったかたちで、評価されるのは、嬉しいことです。

女神列伝
第六回
赤城マリ子 2011年2月に発刊された「女神列伝」文芸社。女子プロレス60年の歴史を紹介したものです。この時代にこういった本が出版されるのは珍しく、現在の女子プロレスを知ると同時に、過去の歴史も知ることができます。赤城さんも表紙から登場しています。こういったかたちで、昔と今がつながるのは嬉しい限りです。

2011年1月
第五回
赤城マリ子 とある集まりにて撮影したカットです。 赤城さんと菊田かなえさん(タレント)=右。 格闘技好きという菊田さんにも参加していただいての赤城さんとの会合。

 今後、赤城さんファンの方とのオフ会を開催できたらと思っています。
(場所は、東京になりますが)開催されたら参加したいという方がいましたら、メールにてご連絡ください。人数の集まり具合によっては、開催できると思います。

全女聡明期の思い出
第四回
赤城マリ子 赤城さんが、全日本女子プロレスに入団したのは、まだ松永髙司が、団体を立ち上げてから間もない頃。社会的にも、女子プロレス自体の認知度が低い時代でした。体育館を借りるだけでも一苦労の時代。生活的にも苦しいものがあったといいます。「パンケーキだけで済ませることは当たり前」。週に一度、松永氏の実家にいくと、どんぶりに山盛りのご飯と納豆が出され、それが、「ことのほかおいしかった」。社長から選手まで、ファミリーのようになり「明日を夢見ていた」時代の話です。

(写真:お亡くなりになる少し前に発売された松永高司著「女子プロレス 終わらない夢」)

襲名
第三回
赤城マリ子 赤城マリ子が2代目という事実は、ファンの間では結構知られています。
初代は、赤木マリ子で「ぎ」の文字が違います。
最近、入手した全女のパンフレットを見ると、2代目の表記も赤木になっていることに気づきました。1971年3月発行となっているので、赤城さんがデビューして1年経っていない頃です。
 初代は、覆面を被ってマスクド・マリーを名乗っており、このパンフレットには、マスクド・マリーも紹介されています。
いつから、リングネームを引き継ぎ、いつから赤城という表記に変わったのか、ナゾです。ご存知の方がいたら教えていただけたらと思います。
 赤城さんが引退した後、そのことを知らない地方のファンが「今日、赤城は出ないのか?」という質問を結構していたことを松永兄弟から聞かされ、「赤城マリ子の名前」の価値を改めて知らされたそうです。
立野記代が3代目を襲名する話も一時でたらしいのですが、
諸々の事情で立ち消えになったそうです。



赤城さんの師匠は、松永俊国さん
第二回
赤城マリ子 松永兄弟それぞれ、なんとなく師弟関係があったことは、クラッシュの長与千種のインタビューでも話されています(長与は国松さん派)。
 「プロレス入りしたころは体が弱かったんです。海辺での合宿で練習していたら、倒れそうになりました。けれども、コーチは、選手一人ひとりの特長や体の特性を見て、個別に指導してくれました。俊国さんは、柔道をやっていた人なので、指導方法も柔道式でした。WWWAのシングル王座に挑戦したときも、“オレの集大成”と言ってくれて。」
「いつも、試合を見てくれていて、良い試合ができたときは、もの凄くほめてくれました。でも、控え室で、いつも言い合いしてました(笑)。まわりの人がみたら喧嘩してるように見えたかもしれません」
 「信頼できるコーチに恵まれたことはレスラー人生の中で大きかったと思っています」


思い出の試合
第一回
赤城マリ子 ベストマッチはどの試合ですか?という問いに対して、でてきたのが池下ユミとの試合。話の中で何度か、出てきました。
 見ているだけの観客にはわからない、選手同士の信頼とリスペクトがあったようです。
 「WWWA王座を獲得した後、池下とタイトルマッチをしたいと、松永俊国コーチに頼みました」。当時、池下はビューティー・ペアの宿敵ブラック・ペアの一人として注目されているのと同時に「実力者」という評価を得ていました。
 「下手な選手がやるとケガをしてしまうというボディを決めるカニばさみをやったのも、池下が相手だったから」。試合をしていて、疲れを感じない、何時間でも試合ができそうな感覚だったのだそうです。
 現役の後半は、後輩ばかりになり、試合を「ひっぱっていく」「つくっていく」ケースが多かっただけに、対等に互いの持ち味を引き出せたことが大きかったのでしょう。


 

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